仏教の教える本当の私【法鏡(1)】

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私のような仏教講師がよく受ける質問の一つに 「仏教って一言でいうと何が教えられているの」 というのがあります。

この「一言で」というのはなかなか大変です。2時間とか時間の枠を与えられて、その時間内で説明するというならまだしも、たいていこんな質問は何かの会食の席で「仏教の講師をしてます」と自己紹介した後なんかに、隣の人との雑談の中で受けることが多いのです。お互い箸を持ったり、グラスを持ったりしている喧噪の場で「一言で言ってくれ」というのですから、さてどうしたものかという場面です。


仏教とは仏の教えと書きます。『仏』とは今から約2600年前、インドに現れたお釈迦様のことです。今日では「ブッダ」としての呼称が馴染みがある方も多いかもしれません。

そのお釈迦様が35歳で仏の悟りを開かれてから80歳2月15日亡くなられるまでの45年間、仏として説かれた釈迦の教え、これを今日『仏教』というのです。


お釈迦さまの説法はお弟子の手によって今日に書き残され、これを『一切経』といいます。私達が普段、お経と呼んでいるもので、葬式や法事の際に僧侶の読む「お経」です。釈迦45年の教えがすべて書き残されているのですから、10冊や20冊でないことは容易に分かりますが、どれくらいあると思われますか。なんと7千余巻という膨大な数のお経が現存します。一切経のことを別名『七駄片馬』と呼ばれるのもインドから中国に三蔵法師が経典を運んだ際に、七頭の馬に積んでも積みきれなかったところからきています。


ではこの7千冊に及ぶ膨大な一切経には何が説かれているのでしょうか。

それを一言で示せ、というのですから、これが大変な問いであることはわかられると思います。


先日交流会で隣りに座った20代の起業志望の青年からこの問いを受けた際、私は「私たちの真実の姿が説かれているんですよ」と答えました。こう答えたのは自分が勝手に言っているのではありません。
ほかならぬお釈迦様がそのように言われているからです。

 

釈尊が80歳、お亡くなりになられるそのご臨終にお弟子の一人が尋ねました。
「世尊、45年間お説きくだされたこの教えを一言で表したら、なんとお呼びしたらよろしいでしょうか」

釈迦45年、7000冊の一切経の教えを一言で表せ、という問いは釈尊在世中に既にあったのです。
しかもその問いはお釈迦様が亡くなられる直前に発せられたものでした。

その問いに釈尊は「汝らに法鏡を授けたのだ。仏教は法鏡なり」とズバリ一言で喝破されました。

『法鏡』とは仏教の言葉です。『法』とは中国の言葉ですが、お釈迦様はインドの方ですから、サンスクリット語では『ダルマ』、日本の言葉では『真実』ということです。


法鏡とは、ありのままの自己の姿を映す鏡ということ。されば「仏教を聞く」とは「ありのままの自己を映す鏡を見る」ということになるのです。

 


私とは何者か。仏教の答え【法鏡(2)】

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アメリカの新聞に小さく報じられたニュースがありました。
つい一年前までは数百万ドルの金を稼いでいたプロバスケットボールの若手選手が洗車場を訴訟したという内容でした。

 

まだ29歳の若さのこの青年は、プロバスケットで築いた財産を友人や弁護士、会計士たちによって次々とむしりとられた結果、今ではわずかの給料で洗車場で働いているというのです。


その洗車場を首になったのは、車を洗う時に、現役時代の優勝の記念である指輪をはずすことを拒んだためでした。


彼は虐待と差別を理由に解雇を不服として訴えを起こしました。その主張は
「自分に残されたものはこの指輪だけであり、それをはずしたら自分は何者でもなくなってしまう」
というものでした。


昔の不良映画の一場面にこんなのがありました。仇役が「おい、オレを誰だか知っているのか?」とにらむ。「しらねえな、あんた、誰だ」と主人公。「ふっ、おい、教えてやれ」と横の子分に言う。「この方のお父さんはなぁ、○○組の親分頭の△△さんだぞ!!」と子分がすごむ。すると主人公、「それはあんたの父ちゃんだろ(笑)あんた、誰だ?」その言葉に仇役が顔面硬直してしまうシーンがありました。


「あんた、誰だ」の問いを前に、私達一人一人、きちんと向き合って答えられるでしょうか。

 

ドストエフスキーの『罪と罰』の中に、カテリーナ・イワーノヴナという登場人物があります。高貴な家柄の出なのですが、結婚に失敗し、今は貧困にあえぐ長屋暮らしで、娘に売春までさせて生計を立てているのですが、「今じゃ想像もできないけどねえ、おじい様の暮らしていたころは、それはそれは楽しく華やかだったよ」と誰彼となく如何に自分の家柄がいいか、昔は高貴な暮らしをしてきたかを語るのですが、周りは失笑し、本人も精神を病んでいきます。


私の血筋、私の肩書き、私の名声、私の彼氏、と私の付属物の価値を誇っても、それはいつまでもあるものではない。

借り物だ。

私自身は何者か?
私の、そのままの姿の価値はどこにあるのだろう?


「私」とはなにか。これを知る教えが仏教だから【仏教は法鏡なり】と説かれるのです。

 


座禅の方法の前に座禅の心をダルマから学ぶ【法鏡(3)】

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達磨(だるま)が書かれている水墨画を見られたことがある方も多いと思います。あのぎょろりとした目で、こちらに向って睨みつけているような形相の絵ですが、不思議と怖い感じはしません。もし怒気を含んだ人から三白眼で睨みつけられたら相当怖いですが、達磨の絵にはそういったものは感じられません。


あれは、己の心をにらみつけている目なのです。

面壁九年、壁に向って端座して、ひたすら己の心と向き合った、ごまかさず、厳しく、己を凝視した、その真摯な表情が描かれたものです。そんな達磨の顔にはときに襟を正される思いがします。


【自分とは何か】そんなこと考えても儲からんぞ、実益の上がること考えたほうがいいぞ、と思ってみても、やはり気になってしまう問いではないでしょうか。


「何のために生きているのか」 「本当の幸せとはなんだろう」と考える人は【自己とは何か】を無視しては通れません。


キルケゴールは「たとえ全世界を征服したところで、自分自身を見失ったら何の益があろうか」と言っています。


川上未映子という作家があります。ミュージシャンであり、女優であり、芥川賞作家でもあります。

本質をつかんだ、おもしろい文章を書く人だな、と感じます

たとえば、中学生の時に誕生日についてこう言っています。
「なぜ祝わなあかんのか?その感覚が分からへん。誕生日ってことは死に一歩近づいたゆうことなのに、何を祝うん?」
先生は唖然として「そうゆうもんなんや!」と答えたそうです。


そのとんがったところはいまだ失わず、文壇に鮮烈な印象を残しています。以下も川上未映子さんの文章です。

「化粧ばっかりしやがって、人の目ばっかり気にしやがって、そんなんちゃうで、そんなもんちゃうんじゃ、ほんまのことは。自分が何かゆうてみい、人間が、一人称が、何で出来てるかゆうてみい、一人称なあ、あんたらはなにげに使うてるけどな、これはどえらいものなんや、おっとろしいほど終わりがのうて孤独すぎるものなんや、これが私、と思ってる私、と思ってる私と、思ってる私、と思ってる私、と思ってる私、と思ってる私、と思ってる私、と思ってる私!! 」

 

どうです。噛み付くようなはげしい文章でしょう。しかし、その文章から迫ってくる真摯さは、どこか達磨の形相と重なるように感じます。



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