本当の幸福【摂取不捨の利益(1)】
私が子供のときに「キャンディキャンディ」という少女マンガがあり、うちの妹が全巻そろえて読んでいたので、私も読みました。
テリィという、キャンディにとって最愛の人がいて、二人は心では 惹かれあっているのですが、そのテリィがどうしても違う女性と結婚しなくてはならなくなり、キャンディに最後の別れを告げる名場面があります。
「さよなら」と泣きながら玄関から出て行こうとするキャンディを、テリィが後ろから抱きしめ、二人が心の中で同じことを願うのです。
「このまま時間が止まって欲しい」
私たちは幸せになると、これが明日も明後日も続いてほしい、ずっと色あせないでほしい、と願います。
今日が幸せなら明日からはどうなってもいい、という人はありません。「今さえ幸せならあとはどうなってもいい」というドラマのセリフはありますが、現実は、明日が不幸なら、今日の幸福に暗い影
をおとします。
今さえ幸せなら、といいますが、あとの人生が暗かったら、今の幸せさえも、幸せにならないのです。時の経つのが悲しくなるものです。幸せに悲しみが混じるのです。
いつか捨てられる時がやってくる・・
別れなければならない時がくる・・
薄氷を踏むような不安の中に人間は生きています。
人間が心の底で求めているのは、ガチッと摂め取られて絶対に捨てられない幸せ、たとえ何が起きても変わらない安心、満足、そういった境地を願うのです。
歎異抄第一章では、その幸福の厳存を親鸞聖人は『摂取不捨の利益』と宣言されています。
本当の幸福とは、色あせないもの、裏切らないもの【摂取不捨の利益(2)】
歎異鈔には、人生の目的は「摂取不捨の利益」になることだ、と明記されています。
摂取不捨の利益とは、がちっと一念で摂め取って永遠に捨てない幸福のことです。
私たちは常に捨てられないようにと、戦々恐々として生きているといえないでしょうか。
▼子供のころは親から見捨てられないように
▼学校に行くようになればクラスの友人から見捨てられないように
▼大学では留年を恐れているのが大学から捨てられないようにしている姿ですし、
▼社会に出れば上司から捨てられないように仕事に取り組みます。
▼結婚すれば今度は妻から捨てられないように気遣い、
▼中間管理職になれば、今度は部下から捨てられないようにやはり気苦労している。
▼株や不動産があれば、今度はそれらの財産から捨てられないようにやきもきし、
▼年を取れば今度は健康から捨てられるのでは、と心配し
▼美貌や才能から捨てられていくのに焦燥感を覚え、
▼子供から見捨てられたら嫌だから、と子供の顔色をうかがう。
まさに薄氷を踏むような不安の中に私たちは生きています。
つかんだと信じた幸せも一朝の夢、握ったとつかんだ楽しみも一夕の幻、幾度となく、捨てられる悲しみや苦しみを経験しているから、「今度もまた捨てられるのでは」と不安になるのです。
そんないつ捨てられるかわからぬ、今日あって明日無きような幸せは人生の目的とは言われません。
何があってももう捨てられることのない幸せ、摂取不捨の利益を獲た時にこそ、「人間に生まれてよかった」「生きてきてよかった」と人生の目的成就の満足に生きることができるのだ、と歎異鈔に説
かれています。
幸せとは?哲学でも心理学でも解明できないもの【摂取不捨の利益(3)】
何回か講座に来られている方で、終わった後にお茶をしていたときに、その方が言われたことです。
その方のお知り合いが震災に会われて、今避難所生活をされているそうなのですが、そのお知り合いの方は寺で仏教の話をずっと聞いていて、写経も日課のようにされていたそうです。
「ねえ、菊谷隆太さん。あんな熱心に仏教を聞いていたのに、こんな目にあうんだったら、仏教聞いていても意味ないじゃないか。」と言ってこられました。
世間に広く、仏教を聞く目的が誤解されているのを感じます。
そのとき、その方にお話した内容は要約するとこうなります。
「災難や事故には、遭うときは遭います。仏教では『諸行無常』といいまして、すべてのものは無常だ、と説かれます。私も今回こそ避難所生活ではなかったですが、次はわかりません。
大震災は関東にくるかもしれません。いつ何が起きてもおかしくない世の中です。
災難や事故に遭わないために、仏法を聞くのではありません。
私たちが仏教を聞いているのは、たとえどんな惨事がきても、どん な目にあっても微動だにもしない幸せ者になるためなんですよ。」
こんな話をしましたが、仏教聞く目的は『摂取不捨の利益』を獲ること。何度も重ねてお話して明らかにしなければならないことだと感じました。
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